松沼義雄(花編みヘアー考案者) ★全国美容ヘアーコンテスト37受賞 ★世界8ヵ国ヘアーショー出演 ★nippon‐1●net認定(日本一記録7つ) ★世界一素晴らしい美容の世界 (著書)
紀元前3000年クレオパトラの時代に遡っても無い、マリーアントワネットの時代にも無い、 どの国どの時代にも無い「花編みヘアー」の考案者。 花編みヘアーに関して、特許第4147542号・意匠登録第1321879号・ 意匠登録第1346931号・商標登録第5157292号、その他多数取得。 桂由美先生 1930年(昭和5年)東京都生まれ、共立女子大家政学部を卒業後、パリに留学、有名人の婚礼衣装を数多く手がける。 93年、外務大臣表彰、NPO法人全日本ブライダル協会会長、著書は「世界基準の女になる!」
人がやっていないことをやる それがパイオニアへの道 独創力の探究・成功の必需品・アイディア。思いつきはするが、なかなか実現できないものである。 自己を貫き、大成させる秘訣はどこにあるのか?文明が進み、色と形が溢れるこの時代で、デザイナーとして歩むべき道とは!?
―独創力の探究―
まず、桂由美先生がブライダルの道に入ったキッカケを教えてください。
ユミ もともと性格的に向いていたのですね。おとぎ話が大好きな少女で、そういった絵本を見たり、かわいい小物を集めたりしていましたね。美しい世界への憧れがありました。本格的な始まりとなったのは、母が洋裁学校をやっていた関係で、当時(45年前)の日本にあまりにもウエディングドレスが無い現状を知り「どうにかならないものか?」と思ったことです。その頃は、結婚式は着物が当たり前の時代で、ウエディングはクリスチャンか、外国人と結婚する人か、長く渡米して帰国したアーティストくらい。実は当時、この人たちは非常に気の毒で、レンタルもプレタも無いから、給料の6ヵ月分は注ぎ込まなきゃならなかったし、サンプルも無いから写真だけを見てオーダーして、実際に仕上がってきたら体に合わなかったりと、とても見てはいられない状況でした。専門店を作って生地を50m・100mとまとめて買えば、120万のものが40万や50万になり、毎日ウエディングドレスを縫うことにより、縫製も合理化できる。そう考えた私は、わずか3%しかない需要でしたけど、儲けとかそんなことよりもとにかく「この人たちをなんとかしてあげたい!」という思いだけで始めたのです。
なるほど。桂由美と聞くと「憧れの女性起業家」というイメージもありますが、その始まりは本当にシンプルな人助けの精神にあったのですね。松沼先生の花編み誕生の秘密は?
松沼 アビン美容室のある地域は、全国でも有名な桜の名所ですが、その桜を見ていて「髪の毛で花の形を編めないか?」と思ったのがキッカケです。そしてその原動力となったものは、長年の美容師生活(30年)の中で感じてきた幾つかのジレンマだったと思います。今まで何かに見える確かな表現のヘアスタイルが無かった。着物でもドレスでも花に見えるようにデザインできるのだから、ヘアスタイルでも確かに何かに見えるという物を発明したかった。「同じ事の繰り返しの人生は歩みたくない」というストレスが常にあった。「自分はこんな事のために美容師になったのではない。アーティストとして生きたい」というプライドと強い意志があったかと思います。
ここで次の段階として見えてくるのが「思いをどう実現させていくのか?」だと思いますが、その際の戦略のようなものは?
ユミ 私の場合は母が洋裁学校をしていたので、それを受け継ぎ、学園長としての役目を果たしながら、ブライダルの店も経営していくというスタンスを取りました。でも10年間は店の売上は従業員のお給料だけで精一杯で、私の取り分はありませんでした。経営は非常に堅実にやってきましたね。「これだけのお金なら、これだけのことができる。この計画なら月々の返済も無理なくできる」とね。それ以上の事はやらないようにする。最終目標としての夢は「お城を建てる」というように大きくていいのですが、それを実現させる時は、一つ一つ堅実にやらなくてはならない。これが大切ですね。
松沼 私は今、花編みを広めようと、まさに当初の桂由美先生の心境ですね。ぜひブライダルとコラボレーションさせていただき、花嫁のヘアに花編みが付く日を楽しみにしています。広め方としては、すべての花編みデザインを雑誌発表した後、全国展開をしていきたいと思います。営業活動をしながら特許許諾講習もしていきます。それから、テレビや映画の女優さんに使って頂けるようにアピールもしていきます。そうする事で更に花編みヘアのデザインも磨かれていくと思いますし、ブームが到来してくる予感も感じますし、成功するように挑戦していきたいですね。
新しい何かを発信する時に、マスコミはやはり重要ですか?
ユミ そうね、私が注目されてきたのは時代の流れもあったのですが、やはりマスコミの力は大きかったと思います。マスコミといっても、お金を出して宣伝してもらう場合と、話題性があって珍しいから取り上げられる場合とがありますよね。私は後者の方だったので「人と違ったことをやる、独創的な発想の展開」というものが必要でしたね。
具体的には、どんなことをやられましたか?
ユミ 初めて店をオープンした時に「7つの個性をデザインする」というテーマでショーをやりました。当時、みんな同じの1パターンな結婚式しかなかった。そんな現状を見て「いろいろな生き方があるし、センスもあるのだから、それぞれ違う結婚式があっていいんじゃないか?」と思ったのね。「無数ある個性だけど、大きく分けると7つに分けられる」そう考え、可愛くてロマンティック、エレガントでゴージャス、日本的な情緒をもった人など7タイプに分けた。そこで普通のモデルを使うのではなくて、それぞれ個性をもった女優さんに頼んだのね。最近ではビーチバレーの浅尾美和さんにパリコレ出演をお願いしましたね。
独創的と言えば松沼先生の花編みは本当に独創的で、100パターン以上もの花編みバリエーションがありますが、そのアイデアは一体どこから?
松沼 クレオパトラの時代に遡った歴史から現在までの幅広いパターンから調べています。インターネットやテレビ番組、美容雑誌などから花編みヘアのパターンに相応しいデザインを考えています。造花の花とは違い、生きている毛髪で編んだ花編みヘアは、生花と同じような感覚で活き活きとした花のイメージを表現できます。また、赤ちゃんからお年寄りまで使用範囲に制限が無く、誰にでも似合う様に作れます。ヘアスタイルの自然の流れに咲く、一輪の花や大輪の花。その素晴らしさを世界中の人に伝えたいですね。
自分の髪で髪飾りができるので、経済的でエコにも繋がりますよね。
「ユミライン」とは、どのようにして誕生したのでしょうか?
ユミ 1981年に初めて日本からアメリカにウエディングドレスを売り出す機会があって、3日間フェアをやったのね。その時、バイヤーやマスコミの方から言われたのが「若い子向けの可愛いデザインばかりで、30代・40代の大人向けのデザインが無い」ということ。その頃、日本では「可愛くてロマンティック」が主流だったし、私のデザインポイントでもあったからショックでしたね。さらに「花嫁さんに可愛いは褒め言葉ではない。褒め言葉はセクシーだよ」と聞かされ驚きました。それで帰国してから「セクシーなウエディングドレス」の制作に取り掛かった。アメリカ的にボディラインを活かしたスレンダーなデザインにしたのは良かったのだけど、なんせ中国服みたいで足元が貧相に見えたのね。そこで浮かんだのが着物の「お引きずり」だったのね。これを取り入れたら「シンプルでありながらゴージャス感も出せる!」と思って発表したら世界的に大ヒットして「ユミライン」と呼ばれるようになったのね。
美しいデザイン、新しいデザインとは、どのように生まれてきますか?
ユミ 素材の話からすると今、開発しているのが「薄暗い所で蛍光色に光るウエディングドレス」。カイコの遺伝子を変えて光るシルクを作るのね。それから「和紙のドレス」ね。でき上がった和紙を使うのではなくて、和紙を作るところからやるんだけど、もみじを入れたり、花びらを入れたりして「本当にこれが和紙なの?」と思われるようなドレスを作ります。それはもう年中「新しい素材はないか?」と目を見張っているわけです。それから「時代の流れを見極めること」が重要ね。シンプルなものが求められているのか、ゴージャスなのか、セクシーなのか、ロマンティックで可愛いものなのか?今だったら「美しさの中に強さを入れる」とかね。その辺の動きを的確に捉えていくセンスが大切ですね。
松沼 今現在、美しい世界(世界の各分野の芸術作品)が有ればこそ、更なる芸術作品=美しいデザインが生まれると思います。たった30年の美容人生ですが、多くの芸術作品を見て、それに憧れて更なる芸術作品を作ろうとする努力が、美しいデザインに繋がると思いますし、どれだけ自分のヘアデザインを愛せるかだと思います。
最後の質問になります。
ご自分がここまで業を成せたのは何故だと思いますか?
ユミ 私の場合はそれしかなかったのね。だけどパイオニア精神はあったかと思いますね。人がやっていない事をやってみたい。日本で誰もやっていなかったことに意義を感じて立ち上がった。それが原点だと思います。
松沼 情熱を持って美容人生を歩みたい、その道のカリスマに成りたい、人真似の人生ではなくオリジナルティーに富んだ人生を歩みたい、歴史に名を残したい、世界中の人に笑顔になってもらいたいなど、向上心の持ち主だということと、美容師が天職だと思って真面目に生きてきたからこそ、発明できたのだと思います。
ありがとうございました。